無意識につけていた基礎体温が高温期に入ったとき――
言葉に出すことを迷いながらも夫に話しかけたことがあった。それは〝妻が子供を望んでいることに対して夫のあなたはどう考えているのか?〟という気持ちの言語化だった。
とりわけ私たち夫婦の場合は言葉にしなければ相手の気持ちに届かないことが多い。私がはっきりと切り出さなければ、自分たち夫婦はずっと赤ちゃんに恵まれない夫婦で終わるんじゃないか? という焦燥感に駆られていたのだ。
私は赤ちゃんが欲しい、それが自然な本音だった。
それに対して彼はどのような考えなのかが知りたい。こういう場合、眠りにつく前の布団の中で話しかけることが良いのではないか? 単純だが、そう思った私はつぶやくように話しかけるように夫に話しかけた……。「こども欲しい?」
「さあ…いらないとは思わないけどさ」
「ふーん」
「私は欲しいけど」
「………」
次第に生返事が寝息に変わりそうな気配を感じつつ、寝入ろうとする夫の目を覚まさせるように、私は続けた。
「なんだか…イヤなんだよ」
「は?なにが?」
「うーんっと…妊娠しやすい日だから誘うことがイヤなの……排卵日だからって誘うのは、自分だけが赤ちゃんを望んでるみたいで嫌だからね」
「ふーん」「だからもし、赤ちゃんが欲しいと思ってるならいつでも言ってよね」
「オッケー!そう言う日は言ってくれれば良いよ、メールでもいいんだし」
威勢の良い返事だ。だがそれは、話を終わらそうとする彼の細工だった。
もう一度聞いた。
「子供欲しい……?」
「zzz……」
寝てしまった…。
寝てしまった夫につぶやくことは空しいが、それ以上に、子供が欲しい気持ちをつぶやくことで自分に正直になれた気がした。
翌日――
音楽を聴きながらワイシャツのアイロンがけをしていた。
歌詞かメロディーか?なぜだか感情は揺れていた。男女関係の儚さとか女の哀れなキモチが私を照らすような気分になって涙さえ少し流してしまった。
今日だって夫は昨日と同じように帰ってくるんだろう。明日だって今日と同じように帰ってくるだろう。その繰り返しの毎日……
そうして寝食を共にして夫婦生活をかろうじて継続している。
けれどここにはもうひとつの大事なもの〝私たちの子供〟が居ない。
子供だけが夫婦の象徴ではないことぐらいわかっている。でも、どこかなにかぽっかりと大きな空虚感があるのは〝子供が居ないから〟だと考えずには居られない自分が居るのだった。
恋愛があって結婚があり夫婦がある。絆とは関係を意味するんだろうが同時に何かによって築かれるものでもあるんじゃないか?
子供だ。
やっぱり、子供の存在は夫婦の絆に架かるものだろうし、親子の絆を生むものでもあるはずだ。
私がママになる日は来るんだろうか?
夫がパパになる日は来るんだろうか?私たちは夫婦としてこれからもずっと……?
子供のいるいないで夫婦の強度は変わらないのかもしれない。
でも理屈じゃなく、女が妻となったときに芽生える本能のようなキモチが赤ちゃんが欲しいという気持ちじゃないか。
夫の子供がほしいのではなく、あたしの赤ちゃんが欲しい。
そんなことを感じていた。
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