結婚生活とは他人と生活するということだ。
親や兄弟姉妹と暮らす感覚とは根本的に違う。その、根本的な違いの要所を占めるのが生活習慣ではないだろうか?
育った環境、暮らしてきた環境、それらへの納得や不満。そういう感覚的な部分が根っこでつながっていない他人同士が愛情だけのつながりで一緒に暮らし始めることの困難さは、よくよく考えてみればとてもエネルギーを必要とする行為だと思うのだ。
つまり自分なりの暮らしやすさへの考え方について、他人同士が同調し合うことは難しい。そうして、同調し合えない部分は細かなひずみとして二人の間に小さな小さなすれ違いをためこんでゆく……。
もともと他人であった者同士は永遠に他人同士であるのに、配偶者という関係が根本的立場をごまかすかのように見えても、結局、夫婦なんて元は赤の他人同士の結びつきでしかないのだ……。
私が欲しいと思うものと夫が欲しいと思うものは違う。
なのに、違うことに気づけない。
だから、自分が欲しいものは相手も欲しいと思うに違いないと錯覚してしまう。
私がしてあげたいことと、夫がしてほしいことは違う。
なのに、違うことに気づけない。
だから、私がしてあげることの全てを夫は喜んでくれるはずだと確信する。
さあここで、錯覚や確信による思い違いに反応する相手であれば夫婦関係は良くなるだろう。嬉しいけれどありがた迷惑…嬉しいけれど本当に欲しいものは…と、私の思い違いを言葉で指摘してくれるならわかりやすい。
ところが、思い違いに気づかぬまま結婚生活を継続することほど不幸なことはない。
小さなすれ違いをためこませてゆき、やがて離婚せざるを得ない状況に追い込まれるのは「わかった気持ちになっていても、もとは他人」であることを忘れ、自分の思い違いを訂正する機会を失ってしまうからじゃないだろうか?親や兄弟姉妹でも相手の思考なんて100パーセントわかるわけがないのに、配偶者なんてしょせんは他人にすぎない。
〝わかるわけがない〟と考えるぐらいがちょうど良いのかもしれない。
言葉を使って主張してもらわなければ、正直、わからないことだらけじゃないか……。
なのに夫婦関係を論じれば、夫婦なんだから言わなくともわかるべきだ?なーんて虚言を吐く旦那はなんにもわかっちゃいないと思うのだ。
言わなければわからない、伝わらない。なぜなら夫婦は他人だったから。
言わなければわからないくせに、言わなくともわかり合えると錯覚しているなんて滑稽な話。さらに、そんなことを続けていれば、二人の行為や愛情は永遠にすれ違ったままとなる。もっとも、離婚してしまえば他人に戻るわけだから関係ないのかもしれないが……
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